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小次郎の「燕返し」――下からくる動きは見えにくい [2017年2月12日号]

*一部抜粋(16) 小次郎の燕返し――下からくる動きは見えにくい

この項目は極めて重要なことを詳述したい。

2月5日号の(18)「東電株の件と大勢には逆らえないから未だ買いの好機ではないかもしれない」というTさんとの交信で述べた★「下から跳ね上がる動きは見えにくく、好機を逃しますから」は次週で例を挙げて判りやすく詳述します)。についての詳細版である。

 

読者の中に剣道五段・錬士のIさんがおられるので、少々述べにくいが簡潔に述べるとこうである。

日本の剣道が剣術であった時代に、その元祖は一刀流と陰流と中条流の三大ルーツになっていて、それぞれがいくつもの流派に別れ、中条流が小太刀(富田勢源;とだせいげん;「名人越後」)で体系化され、そこから逆に長大な太刀の遣い手・佐々木小次郎が輩出されるし、一刀流はいくつもの派に別れ、何故か反権力者(架空の人であるが鞍馬天狗・眠狂四郎・大菩薩峠の机龍之介)にその名が出てくるが、江戸末期に千葉周作の北辰一刀流で広められ一般化された。

陰流は有名な柳生新陰流となって戦国末期から幕末まで、表面は禅に至る剣禅一如の世界、裏面はCIAもどきの政治の世界に入る。

 

佐々木小次郎の「燕返し」というのは後から作った刀法の綺麗な呼び名であって、本当は中条流に伝わる「虎切刀(こせつとう)」という秘剣である。真っ向から垂直にずぅんと地面近くまで斬り降ろす。これはフェイントであって、敵が太刀先一寸でこれを見切った(カラ振りさせた)と思った時に地面近くにある刀の刃を上に返して股から顎までを斬り上げる。これが「虎切刀」である。普通、下から来るものは見えない。ボクシングのアッパーカットのようなものである。また、ミルコ・クロコップの左上段蹴りである。ミルコの左足が敵の右側頭部に飛ぶ。下から来るものは見えない。これである。★

 

一刀流は反権力に多いと述べ、架空の三人を挙げたが逆に、専ら権力を支えるために尽くしたのは陰流である。その典型が江戸に伝わる柳生新陰流である。江戸陰流が政治の道に入り、CIAのような務めを果たし、諜報と暗殺を業務として大名格の1万2千石にまで、のし上がった。が、真の陰流の技法は尾張柳生に伝わる。これが柳生兵庫之介であり、柳生連也斎である。

 

何故にこの話を持ち出したかというと、高値覚えという病を身に付けてしまった者は下から来るものが見えない。上昇相場が続いた後の下降相場は見えていても、大底をついて跳ね上がる動きは見にくいということを言いたかったのだ。未だ、この話をするのは早いが早めに話しておきたかった。

 

これらの流儀の元にあるものは先述の人間の思惟の根本に触れるところにある。「技や術」は「芸」になり、それは「道」に昇華する。その根本は天地の気味に則って創設されたとされ、易の根本思想につながる。宇宙を変化の過程と観て、すべてのものの変化の根源に陰陽二性の相性と相克を置くところにある。三大流儀の根本の道理はこの境地に組み立てられていく。そして人間の思惟は根本的に欠陥があり、不確実性やリスクを(特に不確実性)を明らかにせずに日常を過ごしていく。株価の上下はこれである。

 

これを意識して、正解があるかないか判らない問題、むしろない場合が多い、に対しても正解を求めようと格闘を続けていく強靭な精神力を本稿では「知性」と呼び、これを相場観の土台としようとしている。

これに対して正解が用意されていて、その正解を求める能力を「知能」と言う。知性とは関係があるが別のものである。知能ももちろん必要であるが、相場観で必要なのは知性である。

 

全くの余談だが、吉川武蔵その他でも小次郎の剣を武蔵は跳躍して避けたということになっている。映画でもすべてがそうなっている。吉川英治に代表される「表から見た武蔵」、鳥羽亮などによる「裏面から見た武蔵」、短編ながら「裏面」の代表作とも言いたい藤沢周平の武蔵、山本周五郎の武蔵、新聞記者出身らしく司馬遼太郎の「真横から見た武蔵」、それらは全部、小次郎との対決を「宙に跳ぶ」か「無視」かである。「跳ぶ武蔵」なんて言うのもある。「無視」はまだいいが、下から切り上げて股から顎まで斬りあげる「燕返し(こせつとう)」に対し宙に跳んで避けることは不可能である。オリンピックの走り高跳びの選手でも不可能だ。

ましてや、海岸の砂利の上である。よって全ての巌流島は、これはウソである。

海岸の砂浜では跳躍できない。では、実際にはどのように勝ったか。

 

武蔵は、小次郎の剣より一尺長い木刀を持って、間合いの外に立って下から来る燕返し(こせつとう)を見切って(空振りさせ)、小次郎の剣は武蔵に届かず武蔵の長大な木刀は相手に届く、これを以て真っ向から一撃で撲殺したのだ。

だから武蔵がボートから降りて波打ち際で小次郎を待ったのは、木刀の長さを小次郎に見せないために木刀の先端2割くらいを水中に入れて脇構えをとったのだ。味もそっけもないがこれが死闘というものであろう。この実態を語る者は、二、三の剣道史家と筆者くらいなものだ。尤も、吉川武蔵が巌流島に向かうボートの中で船のオールを小刀で削って長大な木刀を作る場面は原作にも、どの映画にも出てくるが、これは上記の実態を婉曲に描いたものとも思われる。だが、惜しむらくは実際の刀法を知らない吉川にはそこから先を描けなかった。